生活綴られ方練習

花に暮らし、月に明かし、酒池の遊びに酔ひ疲れ

国立文楽劇場で通し狂言『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』を鑑賞。五月公演で上演された初段から三段目に引き続き、今回は四段目ですが、通し狂言といいつつも五段目が上演されない理由を僕は知りません。作品タイトルの「妹背山」部分が三段目なら、四段目が描くのが「婦女庭訓」となるわけですが、庭訓とは家庭の教育といったくらいの意味合いで、そうとは知らず高貴な公家と姫様との三角関係に破れたうえに、官女たちになぶられ嘲笑され嫉妬と怒りに狂っているところを、天皇の地位を簒奪した巨悪を打ち倒すのにその血が必要だからと殺されたあげくの果てに、惚れた人のお役に立てたと喜ぶ田舎娘のお三輪さんに「婦女庭訓」と言わしてしまうのだから、キャンプな風刺でなければ空恐ろしいネーミングです。人形の繊細な所作や、三味線の音の奥深さももちろんですが、ユーモラスですらある言葉遊びの巧みさが好みで、床本を読むだけでも楽しい。「実に世に遊ぶ歌人の、言の葉草の捨て所」。各地の伝承や神話を下敷きにしつつも、大筋としては中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺する「乙巳の変」でありながら、当の入鹿は母親が白い牡鹿の血を飲んで産んだため超人的な能力を持つ悪役で、父親である蘇我蝦夷をも謀殺して権勢を振るっているという奇想天外な舞台設定。そんな化け物、入鹿の御殿は「花に暮らし、月に明かし、酒池の遊びに酔ひ疲れ」と、そこだけ聞くと悪くない気もします。

花と月というのはよっぽど日本人の詩心に合うのか、8日に松本城で開催された薪能で観た能『花月(かげつ)』もシテの役名からしてが「花月」でして、天狗にさらわれ諸国の山を巡った少年「花月」が、清水寺の門前で様々な芸を披露するという芸尽くしもの。芸尽くしものだから、風流な遊びを指す「花月」の名が与えられているのでしょうか。天狗と巡った諸国の山の名前を歌い上げる歌詞や、「羯鼓(かっこ)」という小さな鼓をお腹に付けて舞う可愛らしい様子が楽しい。コミカルな狂言『鬼瓦』の後、いよいよ火入れ。少しずつ暮れゆく夏空に火の粉が舞い上がり、能ならではの幽玄というのか、この世ならざる感がますます感じられて、何といってもこれが薪能を好きな一番の理由。お酒があればなおよしなのですが。続く能『鵜飼』も、『花月』と同じく初見でしたが、禁漁を破ったために川に沈められた鵜飼の亡霊が、その漁の様子を舞として見せる曲。どちらかというと素朴な印象で、世阿弥の改作とのことですが、ことによると元曲はもっと単純に鵜飼の所作を楽しむものだったかもしれないなどと勝手なことを考えたりする。

月といえばもう一つ、八木一夫の『月』という作品を京都国立近代美術館で開催中の『走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代』で観た。学生時代からずっと気になっていた八木一夫および走泥社だったから、京都でこんなにもたくさん作品を観られて嬉しい。とりわけ「オブジェ焼き」と呼ばれた前衛陶芸のエポック的作品『ザムザ氏の散歩』とともに、同じく1954年の走泥社展に出品された『月』も展示されており、同時期の作風を知れて面白い。八木一夫作品に限らず、前衛的な表現にまさに取り組まんとしている様が見て取れる昭和20年代頃の作品の方が、「前衛陶芸」としての一定の評価の定まった感のあるその後の作品よりも好ましく感じた。八木一夫1947年の作『春の海』(同工異曲の同名作品あり)は、フグに見立てたまんまるの陶器で、色も含めてとても愛らしい。京都国立近代美術館は、『ザムザ氏の散歩』を含め、これら作品のほかにも令和4年度に同作家の作品を大量に収蔵したようで、一連の作品は2024年度以降のコレクション展でも順次紹介予定とのことなので、そちらも楽しみです。

< 前の記事へ