生活綴られ方練習

山の名前をいくつ知っていますか?

松本には映画館が実質ないものだから、お隣の塩尻市まで映画を観に行く。東座でこの日かかっていたのはイタリアの小説『帰れない山』を原作とした同名の作品。特にゆかりもない信州に移住してきて、せっかくだから山カルチャーのことを知りたいと考えて、そこでやはり実際に山に行くとかではなく本を読んでしまうのが性分というものなんでしょう。「夏本番 海か?山か?プールか?いや まずは本屋」とスチャダラパーも言っている。そうして串田孫一はじめ錚々たる文化人の面々が寄稿していた山の雑誌『アルプ』の評論集といったところの『「アルプ」の時代』(山口耀久、2013年、山と渓谷社)だったり、立山信仰の拠点である芦峅寺(あしくらじ)で山岳ガイドを勤めた人々に取材した『芦峅寺ものがたり』(鷹沢のり子、2001年、山と渓谷社)だったりを読んで、なんとなくながら「山の民」というものを分かったような気分になる。ヤマケイさまさまです。身体に根ざした博物学的な知識を豊富に持ち、これから起こりうることに備えて辛い作業でも黙々と続ける。単にヒト嫌いというよりは、嫉妬や卑劣さ、横着といった人間がどうしても持つむき出しの嫌らしさが理由で何かが達成できなくなることに我慢がならないといった人たち。

ストレーガ賞も受賞したパオロ・コニェッティによる『帰れない山』(2018年、新潮社、関口英子訳)は、そうした山の民たちの姿を自伝的に描いた小説で、トリノで育つ少年が夏休みの間だけ過ごすイタリア北部の山間の村で出会った少年との友情を主題に、距離のあった父親との死後に訪れる和解などがテーマとしてあるものの、やはり動機としては「山の民」の生活をいきいきと描出することにあったのではないかと思う。主人公の一人称で語られる自伝的小説でありながら、あまり「私」の嫌らしさみたいなものがベタベタとしてこないのは、父や親友、彼ら「山の民」への畏敬の念がそこここに感じられるからなのではないか。原題の「Le otto montagne(=8つの山)」とは、物語後半でネパールの僧に主人公が聞かされるエピソードから採られていて、いわく高くそびえる須弥山を中心にして周囲に並ぶ8つの海と山から世界は構成されていて、世の中には一番高い須弥山の頂きを目指す者と、8つの山を経巡り続ける者とがいる、と。だからタイトルが示しているのは、8つの山を巡る主人公から見た、俗世に馴染めず頂上を目指して死んでいった「山の民」たちの姿であると同時に、「山の民」でなくとも高い山頂に憧れる、その普遍性だったりするのだと思う。「ヒマとゆう言葉はヒマラヤがルーツで だからヒマ過ぎるとムヤミに無茶がしたくなる」とトモフスキーも言っている。

原作を読んでいたときに想像していた山の容貌とは随分と異なる姿が映画には捉えられていて、美しい映像というものの確かさに息を呑みながらも、やはり長編小説を2時間半程度の映画にすることの難しさも感じた。特に父親に関する描写がかなり省かれていたために、元来「山の民」でありながら自分を追い詰めるようなかたちで街に暮らす複雑な人間像が理解しづらいものになっていたように思う。だから、死んだ父親を通じてかつての親友と出会い直し、また親友を通して確執のあった父親とも出会い直すというような、小説を読んだときに舌を巻いた構造が映画では少しボケた印象になっていた点が気がかりだった。やはり父親に関して映画では描かれなかったものに、都会で車を運転する父親が遠くに見える山をじっと見つめているという描写があったように記憶しているのだけど、あんまりはっきりと脳裏に焼き付いているものだから、数年後には映画にもあったシーンだと勘違いしていると思う。そんな間違いを僕が主張していたら、このテキストサイトを持ち出して指摘してください。

こんなにも山のことについて書いたけど、僕自身は登山経験などまったくないばかりか、山の名前すらろくすっぽ知らない。知っている山の名前といえば、キボ、マウエンジ、シラくらいなもので、なぜ知っているかというと、クスコというドイツのニューエイジバンドが1981年にリリースした『キリマンジャロ』が、なぜか日本語の歌詞を付けられて小学校の音楽の授業で教えられるようになっているからで、これは本当に一体なぜなんだろう。そびえる、キリマンジャロ。あなたは山の名前をいくつ知っていますか?

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