生活綴られ方練習

おしゃべりクッキング

1. 昆布といりこで出汁を引きます。できれば30分以上水に漬けたうえで、5分以上かけて沸騰するように弱火でじっくりと加熱します。

出汁を取ることをなぜ「引く」というのか知りませんが、辞書と出汁だけは引けば引くだけいいというのは家訓にしようと思っています。出汁を取ったり、薬缶や土瓶でお湯を沸かしたり、土鍋でお米を炊いたりすることが、思いのほか好きだったりするのは、ただじっくりと待つ以外には特にすることがないからなのだと気づいた。真に能動的な行為とは「待つこと」と「祈ること」だけだと誰が言ったか忘れましたが、何かを待つということはそれが起こることを信じるから待つのであって、たとえば引っ越した先の何もないがらんとした部屋で、特に目的もなくお湯を沸かしてみたりするのは、いわばこの日常が続いていくことを信じるための小さな祈りなのかもしれない。あるいは未来との約束。だから、決して起こらないことを待たせたりしてはいけないのです。そんな日々のレッスンのように出汁を引く行為は、一方でとても地に足の着いた生活をしているような気持ちにもなれて、生活というものがことごとく苦手な自分を慰めるような意味合いをも持つように感じる。「生活?そんなことは召使どもに任せておけ」というリラダンの言葉を真に受けたわけでもないですが、小学生低学年の時分にはすでに苦手意識があって「生活科」という授業科目の存在を知って随分と厭世的な気分になったものです。のちに出会うことになる「家庭科」にも閉口させられましたね。

2. ゴーヤは縦に半分に切り、スプーンでワタを取ります。食べやすいサイズに切って塩揉みをし、よく水気を切ります。

それでもやはり生活というものは他人任せにするべきではないようで、ふと気づけば僕に限らずとも現代人というのは生活が下手になったような印象を受けます。昔の人は衣服でも住居でも何でも自分たちで作っていたわけですから、なかには僕のような不器用な人間も一定数いたのでしょうが、それにしても生活に必要なものを自分の手で作り出すというのはすごいことで、わりと素直に尊敬する。いずれ「えっ、食事って家で自分で作れるものなの?食中毒になったり栄養偏ったりしない?」みたいな会話が交わされる未来があるかもしれませんよ。自分で作るよりお金を出して買う方が高く評価されるGDPを豊かさの指標にしているのですから。おもむろに昔の人の生活が思い起こされたのは、岩波ジュニア新書の『めんそーれ!化学』(盛口満、2018年、岩波書店)を読んでいたからで、沖縄の夜間学校で理科を教える著者の講義をもとにした同書は、化学の本というよりはまさに生活についての本といった感じで、先の戦争により学ぶ機会を奪われた「おばあ」たちが夜間学校で学びなおす理科は、捕虜収容所でマラリアの悪寒に震える家族のための布団を縫うべくコンビーフ缶の金具を叩いて縫い針を作ったとか、米軍の捨てた野菜屑をやはり米軍基地から盗んできた機械用油で揚げて食べたとか、そういう生きられた経験と地続きになっている。

3. 1の出汁が冷めたら1:1の割合で酢と混ぜ、2のゴーヤを漬け込みます。冷蔵庫で冷やして、味が馴染んだらいただきましょう。

お酢の種類は何でも構いませんが、僕は千鳥酢という米酢を使っています。その理由としては、故郷を流れる大河チグリスに音の響きが似ているからというわけではなく、千鳥酢を造る村山造酢株式会社が京都は三条にあり、祇園町も近い三条大橋のあたりを通っているとツンとお酢の匂いが漂ってくる、あの頃の記憶にまだこだわっているからなのだと思います。世界最古の調味料ともいわれるお酢は、紀元前5000年頃のバビロニアにすでに使われていた形跡があるようで、考えてみればお酒のあるところにはお酢があって当然。きっと7000年前のバビロニア人たちもお酒を飲んでは愛した人の死を悼んだり、こんな暑い日には酸っぱい料理で生きるための活力を引き出そうとしたりしていたのだと思えば、何というのか人間の生活の持つ頼もしさのようなものを感じる。それは、大きな力に翻弄され想像を絶するタフな人生を歩んできて、それでも夜間学校で新しいことを学べることが嬉しくてたまらないといった「おばあ」たちの揺るがされることのない確かさとも通じている。歴史的な経験と科学的な知識が交錯する場として存在する生活というものに、ほぼ空想のなかばかりで生きてきた自分がこれほど強い憧れをもつようになるなんて思いもよらないことだったので、げに人間というのは不思議なものです。

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