生活綴られ方練習

産業廃棄物

我が家で打ち合わせがあり、かつ週末には友人一家が遊びに来るということで、部屋の片付けに勤しむ。本棚から溢れて積んであった本たちを、半ば無理くり本棚に収めていくのが主な作業ということに、どうしてもなる。並べた本の上部にできた隙間にもまた本を差し込んだりしつつも、それでもワンアクションでタイトルが確認できるようにはして。絶対に入り切らないだろうと覚悟していたけれど、想像していたよりはかなり多くの本を棚に収めることができて、やはり棚という道具はすぐれものだ。市販の棚だと奥行きがあり過ぎたり、一段ごとの高さの調整が思い通りにならなかったりするものだから、ツーバイフォー材を床と天井で突っ張った間に、四六判やA5判などの高さに合わせて棚板を渡すというシンプルなDIYを、馬鹿の一つ覚えで壁一面に巡らせている。不器用な手による歪な造りながら、そこも含めて気に入っている。次に棚を増設するならどこのスペースだろうと考えながら、実家の部屋にも大量の本を残して出てきてしまって、この先どれほど蔵書を増やしてしまうのだろうかと、柄にもなく途方に暮れてしまったのは、少し前に荒俣宏先生が蔵書を処分したという『週刊現代』の記事を読んでいたからだと思う。荒俣先生や、記事でも言及されている紀田順一郎先生の蔵書とは、質も量も比ぶべくもないが、一庶民にとっては十分に頭を悩ませる分量になってきている。博覧強記のご両人の仕事としては、記事内でも触れられている『世界幻想文学大系』が有名だけれども、うちの本棚にはちょうど1年ほど前に買った『コンピューターの宇宙誌: きらめく知的探求者たち』(紀田順一郎・荒俣宏編、1992年、ジャストシステム)なんかも鎮座していて、こういう話がすっとできるのは本をちゃんと所有しているからだと。やっぱり今のところは、本を手放すということは考えられない。ただどうしても虚しくなるのは、荒俣先生ほどの人の蔵書でさえ、1万冊が産業廃棄物として扱われざるを得ないという状況のこと。僕の愛すべき蔵書なんて、いわんやいわんやですから。自分の精神をかたちづくってきたなんて大げさな物言いをするつもりはないんだけれど、どこの棚に差すのがいいだろうかと1冊1冊考えながら、これらが産業廃棄物と呼ばれてしまう遠くない将来のことを思って、いつもより本が重く感じられたのでした。

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