「書くのが嫌だ、読まれるのが怖い」と言いながら、十二支の動物たちが1周しても足らないほどライター業を続けてきてしまった。もともとが成り行きで始めてしまったこと、いつまでも続けられるものではないと考えつつも、ずるずると書き続けているのは、ひとえにけじめをつけることが苦手な僕の怠惰な性格ということもありますが、こんな自分の文章でも喜んでくれたり読みたがってくれたりする人たちの、少なからずいてくれたことの方が実は大きかったりします。今では、「書いてよ」と言ってくれる人がいるうちは書き続けようかな、くらいには思えるようになれたかと。そんな覚悟がついた、というよりは自分の臆病さにいよいよ諦めがついた矢先、某社から僕へ宛てた原稿依頼が、連絡先などを公開していない僕ではなく、僕が定期的に執筆をしている別団体に対する紹介依頼というかたちで起こってしまったことが、このウェブサイトを立ち上げる一つのきっかけでもあります。いらぬお手間を、というやつです。恐縮千万。
以前より、記事になることを望んでいればこそ、観せてもらえる作品や、聴かせてもらえる話があるのに、曲がりなりにもライターを名乗っているくせして自分から積極的に発言しないのは本当いうとちょっとずるいんだよねえ、と後ろめたく思ってはいましたが、そこは怠惰で臆病な僕の性格が災いしてといいますか。申し訳はたたないです。かの動物たちが3周しそうな、ホロスコープの木星も3周しそうな年齢を迎えるにあたって、そうはいっても多少なりとも真っ当な人間になりたいという、なけなしのモラルを掛け金に、こんな回りくどい文章を読んでまでお仕事を依頼してきてくれる人のためならば、きっと少しは勇気を持てるのではと考えてポチポチとhtmlを打ち込んでいる次第です。継続できるのかまだまだ不安だけれど、なにせ自分自身には発信できるような何がしかも持ち合わせていないので、書かれたそうなもの、というと傲慢かもしれませんが、そういうものと日々の生活のなかで出会った際には無理のない範囲で文章にできればなと、ぼんやりと考えています。それは、多くの場合は本だったり美術作品だったりするのだと思いますが、ひょっとしたらもっと身近なことであったりするのかもしれません。あなたの話を聞かせてください。
最近、何の話をしているときだったか、僕の最も敬愛する人が教えてくれた言葉に「アスコルターレ(ascoltare)」というイタリア語があります。なんでもこれは日本語の「聞く」とも「聴く」とも異なり、訳語としては「傾聴する」や「注意深く聞く」などが当てられることが多いそうですが、これらとも微妙にニュアンスが異なる。横着してgoogleやwiktionaryなどで試みに調べてみると、listen toのほかに、acceptだったり、もっというならobeyなどの意味までもが、この一語に担わされているようです。ただ単に聞くというのでなく、相手の声を全身でしっかりと受け止め、ともすれば身体の中にまですら引き受けるようなイメージでしょうか。で、あればこそ、あの幼い人々のどこまでもまっすぐな(時にそれは専制君主のようでもある)「ねえ聞いて!」が、イタリア語で「アスコルタ!(Ascolta!)」になる。そんなことに妙に感心してしまったのです。世界の秘密を初めて見つけて驚く幼子たちが息せききって話し出すときのような、「熱心に聞いてほしい」「自分の話を受け入れてほしい」という気持ちは、べつに年齢にかかわらず抱いてしまうようで、お酒のまわった僕なども宴席でついついこの「アスコルタ!」をやってしまっては、しばらくの間を照れ隠しのようにして過ごすことがいまだにあったりします。
いつか、永遠にも似た場所で安らかに待ち続けている存在に対して、「ねえ聞いて!宇宙はきっとこういうふうにできているんだよ!」だとか「人間というのはこういう生き物だったよ!」だとか、そんなことを伝えるために生きているとしか思えないような人々がいることを、僕は知っています。世界の真理や自分自身の本当にほんの少しでも触れんとする彼らの営みは、時には科学の研究として、時には芸術の表現として、この世界では片鱗をのぞかせるのだと思います。それからもちろん、息をこらすようにして長過ぎる人生を耐え忍んでいる人々の日々の実践のなかにも、そのかけらはきっと散在しているのだと。
とかく世の人々は忙しい。その点に関する限り、僕には暇人であるというほとんど唯一の美点があります。せめてせめて僕くらいは、そんな人たちの声をアスコルターレするために時間を費やしたって、きっと誰も怒りやしないでしょう。もしも怒られなたら、そのときは謝りましょう。