生活綴られ方練習

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日増しに暖かくなる昨今、呑気な僕などは春の陽気に誘われてノコノコと目的もなく気散じに外へ出かけてしまう日が随分と多くなりました。こんなに浮わっついちゃって35歳、自分でもちょっと心配になるくらいですが、春風駘蕩たるのは人でも空気でも良いことです。考えてもみれば暦のうえでは啓蟄、七十二候なら蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)とのことですから、巣ごもりをしていた虫たちも扉を開けて出かける季節、誰しも外出したくなるのは無理からぬことなのでしょう。長期的な人生同様に短期的な私生活もふらふらしている人間ですので、うららかなこの気分のまま知らない街まで逃避したくなる欲望がヌクヌクと首をもたげてきます。

さてはともあれ、恥ずかしながら最近読んだ本で知ったのですが、かの哲学者ソクラテスという人は自己省察に余念がないあまり、アテナイの街から外へ出ないということで有名だったそうですね。モーリス・ブランショについてのご著書もある郷原佳以さんが、「テクスト」をキーワードに、フィルムアート社から出版の『クリティカル・ワード 文学理論』(2020年)という本に寄せている文章だったのですが、あんちょこ本と侮るなかれ、郷原先生さすがの明快さで、ロラン・バルトやジャック・デリダを扱う難解な内容にもかかわらず、論点が整理されていて大いに勉強になりました。プラトンの手になる『パイドロス』のなかで、そんな出不精の哲学者がわざわざ街を出てまで、散策するパイドロスとの対話を続けた理由は、パイドロスが小脇に抱える一冊の本。通常、「恋」や「弁論」をトピックとするとされてきた『パイドロス』を大胆に読み替えるデリダのテクスト論を、郷原氏が鮮やかに繋ぎ合わせてみせるのは、バルトの『テクストの快楽』です。本書の論旨を踏まえたうえで、郷原先生は次のように記述しています。

こうなるとテクストははっきりと愛の対象になる一方で、「読むこと」は本当に自由なものとなる。字面を追うことをやめ、物理的なテキストから顔を上げ、ごく個人的な連想に耽り始めたときにも、「読む」行為は続いているというのだから。誰かから本の一節を聞き、そこからその本の世界とはほとんど関係のない空想を始めたとしても、それも「読む」行為だというのだから。むしろ、そのときに「読ま」れているものこそ「テクスト」であり、ということは、そのように「読む」ものは「書いて」もいるのだ、ということになるのだから。

長い引用になってしまいましたが、いかがですか、とても魅惑的な文章じゃないですか?集中力が絶望的になく、移り気な読書ばかりしている僕にとりましても、ただお勉強になるばかりか、なんだか背中を押されたようで、少しく嬉しくなったのでした。ことほどさように、「読む」ことは「書く」ことなのだと。「誰もが書き手になれる時代」といわれるようになってもう何年たったでしょうか。巷のインターネットに溢れるのは、そうはいっても虚勢を張った罵詈雑言や、顔の見えない嘲笑に、はたまた毒にも薬にもならない決り文句ばかりで、ちょっとそろそろお疲れ気味の人だって多いでしょう。でも大丈夫です、読むことがお好きなあなたならば、間違いなく書くことだってできるのです。あなたの、本当の話を、自由に、書いてください、後生だから。そうして書かれた文章は、きっと誰かの「愛の対象」になるのだから。

もう幾年も前の話。とっても大切な友人のひとりが初めてのZINEを作ったときのことを今でもたまに思い出します。その極めてパーソナルな作品の編集を「手伝ってほしい」と言われたとき、自分に何ができるかと不安になりながらも、それこそこんな季節の陽射しのような、晴れやかな気持ちになったものです。あの時、僕は本当に嬉しかったんだろうな。なぜだかハロウィンの日の渋谷のファミレスで深夜に作業してたりしたのも楽しかったよね。そのZINE『JANET』は、だから僕にとって「愛の対象」の一つになっています。まだ知らない、遠くて近い誰かが『JANET』をどう「読む(=書く)」かを思っては、うっかり街を出ちゃうソクラテスよろしくソワソワしていたっけ。

繰り返します。ぜひ、あなたの話を書いてください。簡単便利なウェブサイトをつくるのでもいいし、気炎を揚げて雑誌をたちあげるのでもいい。なんだったら、そのへんの裏紙に殴り書きだってもう充分です。このサイトの、あなたから見て右下の方にあるメールアドレスにこっそり送ってくださるだけでも、それはそれで僕が喜びます。この広い世界には、あなたの書いたものを読むことを楽しみにしている人がいるんですよ。もしも手伝えることがあるのだったら声をかけてください。非力ながら、仔猫の手くらいなら貸出可能です。ご希望でしたら貸出カードを作ってさしあげますね。

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