生活綴られ方練習

羅什の舌

このサイトを始めた理由は以前にも書いている通りなのですが、HTMLを手打ちで、しかも凝ったことを全然していないというのは結構大事なことだと思っている。というのも、ブログサービスというものが世に出てきてインターネットが大きく変わってしまったから。ミニブログという形式のSNSであるところのTwitterなどは特に顕著で、世の中に発信することがあまりに簡単になってしまったことが、言論というものに対して何か大きな損害を与えているように感じます。Twitterの場合、その気安さが特にその初期においては楽しかったんだけどね。たしか、ばるぼらさんとさやわかさんによる対談本『僕たちのインターネット史』(亜紀書房、2017年)でも、ブログの登場がインターネットを面白くなくしたというようなことが書いてあって、やっぱりそうですよね、と。帯コメで津田大介さんが「インターネット民俗学」と表現しているのですが、まさにインターネットの柳田国男みたいな人の手になる「ブログ以前の事」みたいな研究の出版が待たれる。コードを手打ちするくらいの面倒臭さが、インターネット文化にある種の豊かさを担保していたのかもしれない。

発言する術を持たなかった人々にインターネットがもたらした恩恵については評価してもし過ぎるということはないと思いつつ、でも前世紀のころに抱いていた期待に溢れた未来とは随分と異なる様相を呈してしまっている。電波に乗ってせっかく僕のところまで届くことのできたサバルタンの声なき声が、SNSなどによってより拡張されたシュプレヒコールにかき消されてしまっていないか。そんなことを考えると少し憂鬱になる。書きたくもない文章をわざわざHTMLを手打ちしてまでインターネットに放流させているのは、だから僕にとってせめてもの抵抗でもあるのだと思う。コードは手打ちの方がいい、肴は炙ったイカでいい。リンクは地道に貼るがいい、灯りはぼんやり灯りゃいい。本当は、書きたいこともないくせにライターを続けている僕などよりも、もっと書いてほしい人がいるんだけれど。何度でも言いますが、あなた自身の話を聞かせてください。

唐突に観音様の話をしますが、観世音菩薩とか観自在菩薩とか呼ばれる、あの観音様です。サンスクリット語のアヴァローキテーシュヴァラを、どう漢訳するかという話で、おサルを連れて天竺を目指す冒険譚で人気の玄奘が「観自在」、初代の三蔵法師ともいうべき鳩摩羅什が「観世音」と訳したそうな。自在に観ることができるのか、世界中の音を観ることができるのか。こんな話をたしか、能楽師の安田登さんがドミニク・チェンさんとの対談で話していたように記憶しているのだけれど、人の苦しみというのは心の内にあって、そのままでは観ることができない、だから音を観るのだというようなことが羅什の言い分だったか。辛いことにもぐっと堪らえて声を出すこともできないサバルタンの、ほんのひとすじのため息すら聞き漏らさないのが観音様、ということでしょうか。ありがてえ、ありがてえな。自分の翻訳にひとつの誤りもなかったら舌は焼かれずに残るだろう、そう言い残して入滅した鳩摩羅什の遺体を焼いたとき、実際に舌が灰にならずに残っていたという逸話があるそうです。

鳩摩羅什の舌が今なお残っているかどうか知る術はありませんが、日々の苦悩をおくびにも出さず、笑顔の奥で歯を食いしばるようにして生きている人のことを、きっと誰かが観てくれているんだと信じられたら、みんな少しは生きやすくなるんじゃないかしら。インターネットにも残ってるといいですよね、羅什の舌。

こんな怠惰な僕でも、だましだましで2ヶ月サイトを続けられたので、一つ前の記事に戻るリンクを貼ってみました。

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