生活綴られ方練習

load, focus, shoot

4月最終週は文楽を観たりKYOTOGRAPHIEを回ったり。文楽は『妹背山女庭訓』を通し狂言で、四段目は夏に上演なので、それまで楽しみはいったんおあずけ。KYOTOGRAPHIEが始まったのが2013年とのことなので、あまりに高くなっていくチケット代など思うことはありますが、10年も続けてきたことは本当にすごいし、ただただ脱帽です。シャッポを脱ぎます。シャネル・ネクサス・ホールでも観たマベル・ポブレットと、建仁寺の両足院で開催されていたジョアナ・シュマリの展示が特に好みでした。写真の見方というのもあまり分からないので、詳しい人に教えてほしい。前々回から政治も分からない、音楽も分からない、写真も分からないと、分からないことばかり書いていますが、分からないものは分からないんだから仕方がない。勉強します。

KYOTOGRAPHIEには、友人のジョイス・ラムさんが出版物の編集業務などに今年から携わっていて、パスポートチケットをいただいてしまっての観覧。自腹を切ったかどうかは、作品の評価にも影響してしまいがちなので、こういうことは明らかにした方がいいと思っています。それはさておき、ジョイスが京都に移住したのはつい最近のことだけど、京都にジョイスがいるというのは何だかとても心強い。彼女は編集者として働くかたわら、家族のあり方などについて考察を巡らせるアート作品も発表していて、トーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)による若手作家の支援プログラム『TOKAS-Emerging』に選ばれてもいます。彼女のレクチャーパフォーマンス『家族に関する考察のトリロジー』の映像展示だったのですが、NASAの有人宇宙飛行計画『アルテミス計画』における家族の定義や、清宮内親王の平民との結婚をきっかけに巻き起こる新婚旅行ブーム、さらには香港にルーツを持つジョイス自身の幼い日にフィリピン出身のメイドがよく作ってくれたというアドボシチューなど、家族というものについて数多くの連想をかきたてるモチーフがちりばめられた、僕好みの作品です。また観られる機会がありそうなので、ぜひ。

そんなジョイスが自身のInstagramのアカウント名「joyceshoots」について、noteに書いていた文章が印象的でした。「撮影する」の英語から何気なく付けたものの、"shoot"という語が「銃撃する」という意味も持つことに気づいたことから、意図していない暴力性というものへと思考を展開させていくのですが、僕もカメラの持つ暴力性について考えてしまうことが多いので、そういう話ができるのは嬉しい。今はどこに行っても誰かのスマートフォンに写り込んでしまう可能性が付きまとっていて、とても嫌な気分になることがあります。レンズを向けるということが否が応でも暴力性をはらんでいるからこそ、フリッパーズ・ギターは2ndアルバムでいわばカメラのレンズをこちら側に向けたジャケットを採用して攻撃性を表現したのだろうし、上からファインダーを覗き込むタイプの二眼レフなどで撮影する場合にお辞儀をしたような姿勢になるのはその暴力性を少しでも軽減しようという無意識の現れなのかもしれない。そんなことないか。昔、テレビでホンマタカシのドキュメンタリー番組みたいなのを見るでもなく見ていて、取材班からずっとカメラを向け続けられることについてホンマさんがすごく苛立っていて、撮影することの暴力性を自覚しているのなら、「この人の写真は観られるかもしれない」と思ったのを、なぜかずっと覚えている。

以前も少しだけ触れたカジャ・シルヴァーマン『アナロジーの奇跡――写真の歴史』(月曜社、2022年)では、フィルムを"load"して、"focus"し、"shoot"するというカメラの術語がそっくりそのまま銃撃のボキャブラリーと一致することを指摘しつつも、そもそも写真を"take"するという人間主体的な語は、写真術の歴史のその初期においてはほとんど使われておらず、写真とはいわば自然が描き出す像を"receive"するものだったと書いています。言われてみればなるほど、カメラ・オブスキュラの時代はもちろんのこと、ニエプス兄弟もダゲールもタルボットにしても、カメラが瞬間を掴み取るといったものであったはずがなく、ぼんやりとした像が時間をかけて現れてくる(それはついぞ現れないかもしれない)のをじっくり待つという類のものにほかならなかったわけで、撮影者の気持ちというのは案外つい最近までそんなものだったのかもしれない。シャンタル・アケルマンなどの実例を挙げながら"develop"(現像する/発展する)していくイメージについて語るシルヴァーマンの写真論は、言ってみればロラン・バルト『明るい部屋』などからずっと続く、いずれ死にゆくものの痕跡といったようなカタストロフィックな写真論から、写真というもの自体を救済する試みなのかもしれません。そういう写真ならもっと観たいと思わせられる良書です。ちなみに翻訳者の一人である松井裕美さんが勁草書房のWebメディア『けいそうビブリオフィル』で連載する『掌の美術論』も非常に刺激的です。

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