ここ数日は何だかすこぶる良いものを観る毎日が続いていて、それは具体的には松本Give me little moreでの『PHANTOMS』(土曜日)というイベントだったり、名古屋は堀止緑地での『PARALLELS』(日曜日)だったり、代官山UNITで開催された信藤三雄さんの追悼イベント(月曜日)だったり、天王洲YOANI劇場銀河劇場の韓国発ミュージカル『マリー・キュリー』(火曜日)だったりするのだけれど、何というか、つい今しがた体験したものをすぐ言葉にするということが苦手なのだと思う。少し考えさせていただいてもよろしいでしょうか?いずれ書けるときが来たらその時は。
それなのに、こんな名前のウェブサイトを始めてしまったのは、という誰も別に興味のないだろう話をしないといけない気がしてきたので、しますね。元ネタである「生活綴り方」というのは、「児童・青年,さらには成人に自分の生活に取材したまとまった文章を書かせることによって,文章表現能力または,表現過程に直接間接に現れてくる知識,技術,徳目,権利意識,意欲,広くはものの見方,考え方,感じ方を指導しようとする教育方法,またその作品,あるいはその運動」(文責:コトバンク失敬)だそうで、要は、あまねくすべての人が自身の生活をしっかりと見つめ、そこに起こっている出来事をどのように感じるか、それについてどのように考えるかを「作文」というかたちで追究するということなのかな、などと思うわけですが。面白い(?)のが、この綴方運動というものが、きな臭い戦時下にあってはたびたび取り締まりの対象になったということです。特に北日本や日本海外側などのタフな生活が繰り広げられていた地域では、目の前の貧しさと向き合うという作文教育のスタイルが「資本主義の矛盾を吹聴している」と目され、多くの教育者が検挙されるということがあったようです。そうですそうです、あの治安維持法というやつです。
1941年の北海道、後に「北海道綴方教育連盟事件」などと呼ばれるようになる、まあどう考えても今の感覚では不当逮捕としか言いようのない事件が起こるわけですが、それについては2013年に見つかった資料をもとに丹念に取材した佐竹直子さんの『獄中メモは問う 作文教育が罪にされた時代』(北海道新聞社)という素晴らしい本があるので、是非そちらをご参照いただければと思います。この事件に関連して逮捕された人というのは、むしろ教育に熱心で、子供たちからも慕われていた人が多かったそうです。「作文教育が罪になる時代」という副題があまりに示唆的で思わず息を呑んでしまいますが、その「時代」というのは1940年代に限った話なのか、それともそれとも。
自分自身が現在置かれている生活を鋭く見つめ直して、感じたことや考えたことを率直な言葉にする。なるほど確かに、僕が極悪権力者ならそんなことは禁止にするかもしれないですね。市民一人ひとりがそんなことをしだしたら「社会が変わってしまう」とかなんとか。裏返していうなら、それくらい僕らの言葉には力がある。だから、いつか誰もが、自分自身の痛みや喜びを、ためらうことなく正直に言葉にすることができるようになるならば、この社会はもう少し良くなる。そんなことを半ば本気で信じていたりします。と同時に、一人ひとりがそういうところからやり直さない限り、多少でもマシな社会にさえできないほどにこの社会は疲弊してしまっているのだとも感じていたり。まいったまいった。
でもじゃあなぜ「綴り方」でなく「綴られ方」なのかというと、何でだったか自分でも定かではないんだけれど、SNSなどに溢れかえるインスタントな言葉たちに、まるで溺れるように翻弄されている状況を見ていて、今の時代は綴ることと同じくらい綴らないことや、綴られること、あるいは綴られないでいられることなんかが大事なのかもと、ぼんやりと思ったのだった気がする。自分の見た景色や抱いた感情、自認する属性なんかを、訳知り顔な薄っぺらい言葉で綴られたくなんかなくないですか?意識していたわけではないけれど、「綴ら」という音は、かわいそうな舌切り雀なんかがよくお土産に持たしてくれる「つづら」とも共通していて、それは漢字で書くと「葛籠」なものだから、うーん、くずかご?僕の何の実にもならない駄文をとりあえず放り込んでおく箱としては案外ふさわしい名前なのかもしれないなんて、ひとり楽しんだりしている(「くず」の意味が違う)。ところで、これは舌切り雀のネタバレ注意なんですけど、小さい方のつづらを選んだ方がいいですよ。いよいよ絶望的な社会だけど、小さいことから粛々とやっていきましょうよという、珍しく前向きな気分なんです。そんな前向きでもないか。