生活綴られ方練習

娯楽の殿堂

帰省していた関西から松本へと帰る道すがら、名古屋に立ち寄りモノクロームサーカスの公演『TUBUTE/レミング』を観る。京都でコンテンポラリーダンスというと真っ先に名前の挙がるモノクロームサーカスだから、僕も学生時代から何度も公演を拝見しているが、意外にも名古屋公演は初とのことでびっくり。『TUBUTE』は、和合亮一さんによる現代詩とのコラボレーションということで、現代詩の朗読とコンテンポラリーダンスの相性ってどうなんだろう?と訝しんでいたものの杞憂で、和合さんの発声とダンサーたちの動きを、山中透さんの音楽がブリッジするような印象もあり、それぞれの緊張感あるバランスが面白かった。本作のために和合さんが書き下ろした詩は、「日没」という言葉のリフレインが印象的で、公演後にビートニクが好きと和合さんがおっしゃっていて何となくうなずける。もう一方の『レミング』は、倒れそうになるダンサーを他のダンサーが走って抱きかかえに行くというルールに基づいた、モノクロームサーカスの代表作といえるフレームのしっかりした作品。名古屋を拠点に活動するカンパニー「アフターイマージュ」のメンバーなどが出演する。集団自殺する齧歯類として有名なレミングをタイトルに、ともすれば自滅の道をひた走るかのようにさえ見える人類社会を風刺した作品でもあるのだと思いますが、レミングが集団自殺するというのは、あくまで伝説です。個体数の増減が激しいことと、集団で大移動することから生まれた誤解だとか。

「レミング」と聞いて、いの一番に思い出すのは、寺山修司が主宰した「演劇実験室◎天井棧敷」の最終公演だという人も多いでしょうが、大阪では唐十郎の代表作の一つ『少女都市からの呼び声』を観劇。「新宿梁山泊」主宰の金守珍氏による演出で、Bunkamuraが企画・製作の唐十郎戯曲ということで、2019年の『唐版 風の又三郎』、2021年の『泥人魚』などと同じシリーズといえるでしょうか。『泥人魚』では『マリー・キュリー』のタイトルロールも見事だった愛希れいか氏(元月組トップ娘役)の演技が素晴らしかったが、今回は主演の咲妃みゆ氏(元雪組トップ娘役)の存在感が圧倒的で、宝塚音楽学校による日本演劇シーンへの貢献を思う。戯曲自体は、唐ならではの言葉によるイメージの氾濫が楽しいものの、純粋無垢なガラスの子宮といったナイーブな男の幻想みたいなものを深刻ぶって見せられるのがあまり受け付けられない。しかしながら、物語にとっても重要なモチーフであるビー玉を大量に使用したラストシーンは圧巻で、咲妃みゆ演じる雪子のこの世のものならざる感とともに、作品の持つ夢幻世界を強烈に立たせていた。宝塚歌劇団の話を少しすると、早霧せいな&咲妃みゆトップコンビ時代の雪組は、「トップ就任後の大劇場主演作が5作連続で客席稼働率100%超えを達成し、これは宝塚史上初の記録」(Wikipediaより)だそうで、たいそうな人気だったようです。この時代の雪組というと、残念ながら宝塚歌劇を辞めてしまった鬼才、上田久美子氏による作・演出の『星逢一夜(ほしあいひとよ)』は本当に名作で、思えば昨日8月22日は旧暦の七夕、この時期に観たい作品です。

寺山や唐らのアングラ演劇の想像力の源泉として、サーカスというものが一つあると思うのだけど、退役軍人だった馬術家フィリップ・アストリーがロンドンで曲馬ショーを行って以降、円形にステージを使用したことから同様の演し物は「サークル(=円)」と同じ語源を持つ「サーカス」と呼び習わされることになる。「近代サーカスの父」といわれるアストリーや、それに続くサーカス団は庶民の娯楽として長らく親しまれるも、やがて映画やテレビといった新しい娯楽にその役割を奪われる。ミヒャエル・エンデの『サーカス物語』(1984年、岩波書店)は、まさにそんな憂き目の時代のサーカス団を題材にした子供向けの戯曲だけれど、矢川澄子の手になる訳文があまりに美しくて、ひょっとすると僕がサーカスというものに惹かれる最初のきっかけだったのかもしれない。ともあれ1970年代に入ったフランスでは、落ちぶれたサーカスを復活させようとサーカス学校設立の動きが起こります。これがサーカスを総合芸術としてとらえた、いわゆる「ヌーボー・シルク」という今に連なる新しい潮流の始まりで、かの有名なカナダのサーカス団「シルク・ドゥ・ソレイユ」などもこの流れにあると考えて間違いないでしょう。というわけで、実を言うと大阪では『アレグリア―新たなる光―』も観ていて、たとえば空中ブランコから跳んだ人を別の空中ブランコに乗る人が受け止めるといったとき、ぴったりと息を合わせた二人の、お互いがお互いの腕を信頼しきっているというような表情にドキリとするのです。それはともかく、こんな娯楽三昧の日々でよいのでしょうか。

< 前の記事へ