生活綴られ方練習

日本は125位

2週連続で塩尻の東座へ映画を観に行く。フランソワ・オゾンによるファスビンダー作品のリメイク『苦い涙』は僕以外にお客さんがもう一人、ムニア・メドゥール監督『裸足になって』に至っては、なんと貸切状態だった。毎度まいど面白い作品ばかりをかけてくれる東座なので、もっと大入りになって大儲けして、立派な御殿でも建ててほしいと思うのだけれど、物価高も留まるところを知らない昨今、こういうところから家計の出費が減っていくのは仕方ないのかもしれない。珍しく、厳しい現実の話をしています。

世界経済フォーラム(WEF)が発表しているジェンダー・ギャップ指数で、2023年も144位と世界最下位レベルだったアルジェリアを舞台にした『裸足になって』では、本当にタフな現実がこれでもかというくらいに描かれていて、メドゥール監督のドキュメンタリー出身というプロフィールに納得する。主人公の勇敢さや彼女を取り巻く人々の心の優しさ、どんな状況を前にしてもダンスという表現が失うことのないしなやかな強さくらいしか救いがなくて、そういったものには目もくれない現実社会というのはいつもあまりに冷酷で、地中海を望むマグリブ地方に特有の景色の美しさが余計に厳しい。主人公の母親が「フーリア、フーリア」と、「自由」という意味を持つ娘の名を歌いかけるシーンがとても印象的。

かねてからの女性の就労差別に加えて、内戦やテロリズムを経験したこの国にあって、ただ「自由」だけを望むことの難しさは、どんな時も明るく優しい親友ソニアの前にも容赦なく立ちはだかるものだから、大きなリスクを取ってまでもスペインへと密入国しようとする彼女の哀しい顛末に、「移民」という現象についてもっと抽象度の高いところから勉強しなくてはと、ずっと積んでいたポール・コリアー『エクソダス 移民は世界をどう変えつつあるか』(みすず書房、松本裕訳、2019年)を手に取る。あんなにもきれいな地中海にあって、ランペドゥーザのような地名が悲惨な現実とともに語られることにやりきれなさを感じ、やはり積んである『顔のない遭難者たち』(クリスティーナ・カッターネオ、栗原俊秀訳、岩瀬博太郎監修、晶文社、2022年)も読まなあかん、と思うけど、いつになることやら。

まさに「最底辺の10億人」というタイトルの著書もあるポール・コリアーは、主にアフリカの貧困国の経済を研究している人らしく、経済学にも疎い僕にとってはトピックとしては関心があっても内容が難しかろうといつまでも読まずに積んでいたわけですが、いざ読み始めてみると意外と門外漢にも分かりやすい内容になっていて、さすがは我らがみすず書房といったところでしょうか。「移民」が良いか悪いかではなくて、どれくらいの移民であれば適切かという建設的な議論をしようとする本書では、この複雑なテーマをタブー化して真っ当な学者や政治家が議論の俎上に乗せることを怠ってきたばっかりに、過激な意見ばかりを主張するデマゴーグたちによる二極化に陥っているというようなことが冒頭に書かれてあり、タブー視されることによって丁寧な議論が醸成されず醜い憎悪ばかりが世の中に撒き散らされるというのはよく見かける光景だなと思う。ラッパーならラップで返すべきだし、言論には言論でしか応答できない何かがあるのでしょう?ちなみにタブーはポリネシアの言葉が語源で、「タ」が「しるし」、「ブ」が「強く」を意味するそうです。

「移民」が良いか悪いかというと、禍福はあざなえる縄のごとしなのであって、そりゃ良い面も悪い面もあるでしょうよ、他のすべての事象と同じように。移民がなければ今に見られる人類の発展はなかったし、それは未来においても変わりやしないでしょう。一方で背景の異なる人々が多く移住するとなると先住の人々との軋轢が生まれるのもまた当然で、でもそれは社会がより良い方向へと変化していくためには必要な、あるいは少なくとも無駄ではないコストなのではないかなとも思う。今の現実社会が手放しで褒められるものだとは僕には決して思えないので、より良く変化してほしいと考えるわけですが、社会のより良い変化を目指す重責を担っているはずの政治家のトップが「社会が変わってしまう」ことを危惧するような国では、そんなものは望むべくもないのかもしれません。

あんまり辛気臭いことばかり言っていても埒が明かないので、映画でもダンスでも、何かそういうものを観ようと思います。こういうところを切り詰めてしまうと人間、途端に偏狭になってしまいますからね。

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