生活綴られ方練習

祭りの気配

先週末のメインイベントは何と言ってもGive me little more.の10周年。店主の新美さんは僕の一つ年下だというのに、10年もお店を続けてきたということに感服する。そればかりか音楽もお酒もカレーも面白いものが揃う、間違いなく松本で最も良い場所の一つでしょう。2日連続の周年イベントには、松本に越してきて知り合った人たちも何人か出演していて、ハッピーでピースフルなお祭り騒ぎ。めでたいねえ。

人混みが苦手で子供の頃からあまり得意でなかったお祭りだけど、せっかくだからと深志神社の天神祭にも足を運ぶ。山車が立派で、その上で酒盛りをしている人たちのことが羨ましくなる。お祭り自体は変わらず苦手だなと思いつつも、すれ違う法被を来た親子連れや、誇らしげにおもちゃを抱えた子供たち、頭足類の焼ける匂いなど、神社に近づくに連れて漂ってくる祭りの気配のようなものは好きで、これは神田の生まれのチャキチャキ江戸っ子や浅草育ちのちょっぴり美人でなくともソワソワしてしまうものだから、ピーヒャラピーヒャラテンツクテンツクと向かうのです。日常のケから非日常へのハレへと。

その前日には深志神社に隣接するまつもと市民芸術館で舞台鑑賞。作品の良し悪しはさておき、おそらくはかなり年若い人も含めた市民キャストがたくさん参加していて、そのせいか客席にも子供たちや家族連れが散見され、事によると生まれて初めての劇場体験かもしれない。普段は一緒に遊んでいる友達の、舞台上で拍手を雨あられと受ける晴れがましい姿を観るというのも、日常が非日常へと一変する瞬間で、そういうのはたくさん経験すればするだけ良いことだと思う。僕はもう日常と非日常の区別がつかなくなって随分と経ちますが。

そういう日常と非日常の境目のようなものが、きっと祭りの気配の正体なのでしょう。以前、東京の戸越銀座商店街を何の気なしに散歩していて、福井県坂井市の三國湊帯のまち流しの行列に出くわしたことがある。お祭りをやっていることも知らなかったので、富山の風の盆のように笠を深くかぶった姿でゆっくりと商店街を踊り歩く人々との邂逅は、まさに非日常と日常が混じり合う感触があって、帰り道も「ここはまだお祭り、ここはまだお祭りかな?ここはもうお祭りじゃないかも」と祭りと祭りじゃない空間の境目を探すようにして歩いた。

何かと何かの境目というのがいつも気になっていて、たとえば人の動きはどこまでが単なる動きで、どこからが踊りになるんだろうとか。大学の頃に所属していたサークルの後輩に「一段だと段差ですよね、何段からが階段ですか?」と尋ねられたことがあって、そうよねえ気になるよねえとなった。どこからが作品とか、どこからが街とか、どこからが病気とか、どこからが現実とか。そんなことばかり考えているから、性別も年齢も国籍も不詳だと人から言われるような曖昧模糊とした存在になってしまったのかもしれない。

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