久々に4泊5日もした東京に少し疲れてしまって、松本に帰ってきてからは随分とだらだらと自堕落に過ごしてしまう。羽田にも成田にも直通の都営浅草線三田駅は、古い駅だから仕方ないのかもしれないけれど、駅直結のビル内にあるエレベーターは運転時間が限られている上にエスカレーターも大々的に工事しているとかで、空港から朝早い便で飛ぼうとするならば大荷物を抱えていくつもの階段をひたすら越えて行くしかない。旅のお供にキム・チョヨプ氏とキム・ウォニョン氏による共著『サイボーグになる』(牧野美加訳、岩波書店、2022年)を携行していたこともあって、アクセシビリティというものについて考えさせられる。
1993年生まれのSF作家、キム・チョヨプ(金草葉)は、後天的な聴覚障害があり、10代の頃から補聴器を使うようになる。一方のキム・ウォニョン(金源永)は、チョヨプより一回り近く上の1982年生まれで、ロースクール卒業後に弁護士として働きながら俳優やパフォーマーとしても活躍しているそうだ。生まれつき骨が折れやすい骨形成不全症という難病を抱え、やはり10代で車椅子ユーザーとなった。「障害者」という自認をアイデンティティの一つとしているという共通項を持ちながらも年齢や性別などが異なる2人の共同プロジェクトの結果として実を結んだのが、「障害と科学技術」というテーマを掲げた本書だ。ダナ・ハラウェイに遡る「サイボーグ」というイメージは、著者たちにとって「『科学・技術・医学に対する批評に登場する障害者問題は実情を反映していない』ことを明確に示してくれる」力強い象徴であり、「われわれの『人間中心性』をある程度は解体してくれる」点でも有用な比喩とされている。
本書で取り扱われる障害とテクノロジーを巡る様々なトピック一つ一つについては僕も聞きかじったことのあるものが多かったものの、今すでに眼の前にある社会課題についての論考をキャッチーな単語による思弁的なテーマでまとめ上げる際に陥りがちな、過度に観念的な内容になってしまうことや一過性の流行として消費されてしまうことから、著者たちやその友人たちの日常的な経験が語る生々しい具体性によって免れている点において、とても好感が持てた。まったく前知識のない状態で、たまたま看護系の本棚を探索している時にこういう本と出会ってしまうから、リアルな大型書店は面白い。
本書では当然ながら韓国での話題が多いわけだけど、日本ならたとえばあの『東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会』。最先端の科学技術によって生まれた義足を装着したアスリートたちの強く美しいイメージが、パラリンピックを盛り上げるために街なかのいたるところで使われたことでしょう。その「感動的な」イメージが喧伝されるたびに、ひねくれたところのある僕などは「障害者が表舞台に出るためには強く美しくないとあかんのか」「そんなもん結局のところ技術力と資本力の勝負になってまうやんか」などと後ろ暗い気持ちになったものだ。まったくないよりはなんぼかマシなんですが。1964年の東京オリンピックの際に初めて開催されたパラリンピックは、当初は「paralysis(=麻痺)」のオリンピックとして名付けられていたのに、いつの間にか「parallel(=並行)」のオリンピックと説明されるようになっていて、ますます胡散臭い。ことほどさように言葉というのは嘘をつく。その嘘によって隠蔽されたものは何だったのだろう。
多くの場合、身体や感覚の機能の欠損として捉えられる「障害」は、医学・科学技術においては「治療」すべきものとして対象化されている。二本の足で歩けるようになること、多数派の人間にとっての可聴領域の音声を使ってコミュニケーションを取ること、それらは本当に「当事者」から望まれていることなのか。「ろう」の人たちのなかには、自分たちは聞こえる人たちとは異なる独自の「ろう文化」を育んできたと考える人が多い。彼らの聴力を「回復してあげて」、音声言語によるコミュニケーションを可能に「してあげる」テクノロジーは、時に「優しい」テクノロジーと呼ばれるのだろう。日本語でしかコミュニケーションを取れないのは可哀想だから、あなたもハナモゲラ語を話せる体にしてあげましょう。
もちろん、そういった科学技術の力にアクセスすることでより良く生きられる人々がいるのは事実で、というより実際にはむしろテクノロジーに依存をしなければ生きられなかった人の方が世の中には多いように思う、産業革命以前の地球の人口などを考えると。ある一定の周波数の音が聴こえにくいこと、骨が壊れやすくて歩くのが難しいこと、それらはアイデンティティになり得るものだし、一方で最先端の技術の力を駆使してそうではない自分を望むことだってあるでしょう。そういう自分のどうしようもない身体と、それをどうにかしてくれるかもしれないテクノロジーへの淡い期待や不安、軋轢、そういったものは何も「障害」に限ったことではないので、本書の持つ射程は思われている以上に広いように感じます。
『サイボーグになる』を書きはじめたころ、わたしが繰り返し思い浮かべていたイメージは、超大作映画に登場するサイボーグたちだ。彼らはすらりと滑らかな手足を自在に操りながらスクリーンの中を飛び回る。わたしにはすんなり感情移入できない、あえてしようとも思わない。そんな存在だった。けれど今、そのサイボーグたちはわたしのそばにやって来て、疲れた顔で腰を下ろす。義足を外して手に持ち、実はこれちょっと邪魔だったんだよね、とぼやく。欠陥を抱えていて、それを隠したいと思っていて、克服しようとするけれど失敗し、結局はそのぽっかり空いた穴を自身の一部として受け入れる、そんなサイボーグたちを想像する。表情ひとつ変えずに疾走するサイボーグの、スクリーンの裏側に存在する、複雑で不完全な生を考えてみる。すると、彼らが本当にこの世に存在しているかのように、そしてまさに自分自身であるかのように感じられた。
「おわりに」でこのように述懐するキム・チョヨプは、本書の執筆を通して「同時代の障害者たちから多くの学びを得ることができてよかった」と書いている。「こつこつと世界を修理し、継ぎはぎし、重ね合わせ、繕う、その想像力から。とうていたどり着けそうもない世界を宣言しながらも、今自分たちにできる小さなことから始める、その力強さから」、「複雑だからと何かをためらってばかりいてはいけないことを学んだ」と。あまりに複雑に分断されてしまった世界を想像力によって繕うことこそ、嘘を得意とする言葉の技術であるところの文芸が最も注力して取り組むべき課題だと思う。オルガ・トカルチュクがノーベル賞受賞講演で言ってたんもきっとそういうことやで、知らんけど。